dealer in oriental works of art
watanabe sampoudou

コラム

  • 古染付と私 福山人
  • 〈鼎談〉「即如」の美 在りのままに生きる

〈鼎談〉「即如」の美 在りのままに生きる人 森孝一×福山人×渡邊祥午

先生とお会いして、もう何年になりますかね。初めて先生が蒐集された古染付の写真を三方堂さんに見せられて、眺めているうちにとても清々しい気持ちになりました。それで、「先生のところへ行きませんか」と三方堂さんに誘われて、思わず「行きましょう」と答えている自分に、実は驚いたのです。普段なら、そういうことはまずないことですから…。(笑)
渡邊
日本陶磁協会の事務所に森さんを尋ねたのは、確か二○○八年の十二月の暮れでしたね。
言葉は曖昧ですが、“もの”は正直なのですね。きっと“もの”に呼ばれたのですよ。それで、『陶説』に先生の「古染付と私」という文章を掲載させていただきました。その文章の中に、「私が古染付を通じての最も大きい収穫は、古染付という“もの”の収穫ではなくて、美しい“もの”への愛着という道程の中から、人間の生き方や在り方の方途を学んだことであろうと思っている。」とありますが、恐らくそういう先生の清々しい生き方が古染付を通して垣間見えたのではないかと思います。その後、私の編の『文士と骨董 やきもの随筆』(講談社文芸文庫)の感想を書いたお葉書をいただきました。いろんな方からお手紙をいただきましたが、その中で一番印象に残っているのが先生からの心の籠ったお葉書でした。
福山人
何を書いたかもう忘れてしまいましたが、御本はいまも繰り返して読んでいます。
先生から頂戴した『初期伊万里』の本をめくっている時も、やっぱり古染付の写真を見せられた時と同じ清々しさを感じました。きっと先生は、古染付と同じ目線で初期伊万里を選んでおられるのだと思いました。先生が骨董を集められるようになったそもそもの動機というのは、やっぱり民藝ですか。
福山人
初めから民藝に入っていた訳ではないのです。最初は蕎麦猪口みたいなものから入って行った。私の親戚に砺波民藝協会の会長をしていたオジサンがいて、柳宗悦さんとも交流があったり、民藝の大家もよく来ていたので、朱に染まれば赤くなるで、いつの間にか染まってしまった。それで、柳さんの著作を読んだりして、成る程こういうことかと次第に分かってきたけど、決して民藝にべったりだった訳ではありません。このあたりは飛騨高山に近いでしょう。だから、日曜日になると骨董好きが集まって、車で二時間半ほど舗装のしていない山路を走って高山へ行くのです。昭和三十五年から四十年ぐらいまでかな、その頃の高山には面白いものや欲しいものが沢山ありました。
初めて買った古伊万里の蕎麦猪口も、確か高山でしたね。その高山で見つけた品々を、後で仲間たちと批評されたりしたのですか。
福山人
こういうものは同好の士がいないと、自分一人だけで趣味的な行為をしても長続きはしないのです。お互いに張り合うというか、そういう友達が何人かいて、私の他にもグループがあって、あれ買おうか、あれ面白いぞ、と焚き付けるからみんな夢中になって、仲間を何とか出し抜いてやろうと思っているから。いいものを手に入れても中々見せないのですよ。(笑)
先生が書かれた「私の蒐集抄」の中に、「私には古染付でなければ骨董に非ずといったかなり溺れた一時期があった。寝ても醒めても古染付だった。思えば古染付という一つのものに熱中できた充実した時間だった。」とありますが、この古染付によって先生はしっかりと自己主張されている。先生の言葉を借りれば、「個人の蒐集で創作といえるものは極めて少ない。殆どが創作はおろか、模倣すらもないのである。蒐集が創作たるには、質の高さは無論のこと、ものの個性や思想が如実に表れていなければならない。集めたものを見れば、その人が分かるといわれる位、蒐集という行為はれっきとした自己主張なのである。」とありますが、先生のコレクションの魅力はまさにそういうことだと思いますね。
福山人
古染付と初期伊万里の年代はそんなにずれてはいないのですよ。私は成熟したものにはあまり魅力を感じないのです。成熟に至る過程というか、その途上で無心に作っている時期に造られたものに魅かれるのです。
福山人
昭和三十五年頃からぼつぼつと集め始めて、およそ十年ぐらいですかね。
中国は古染付だけ、日本は初期伊万里だけという集め方も面白いですね。

→2ページへ

PAGE TOP