dealer in oriental works of art
watanabe sampoudou

コラム

  • 古染付と私 福山人
  • 〈鼎談〉「即如」の美 在りのままに生きる

←2ページへ
古いやきものを愛する人は多いが、それを使う人は少い。そしてそれを使いこなす人はもっと少い。確かに古陶磁は、日常の使用に逡巡しがちである。せいぜい用いても、座辺の花生か、酒器ぐらいのものであろう。しかし、毀れることを気遺って箱に仕舞い込んだり、滅多に日の当らぬ所に安置されっ放しでは、やきものとしての生命はない。扱いに慎重を要するが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになると思う。

日頃、美術館のケースの中の高価なものには心を動かされることはないが、美しいものが座辺にあって用いられているのを見て、ハッと身のひきしまる程驚くことがある。それは美濃や、唐津や、伊万里の残欠であってもいい。さり気なく用いられることが、やきものへの思いやりと感じられて嬉しい。もとより、古染付も用に応じて造られた雑器に過ぎないから、これを用いないで、何の古染付かと言いたいところだ。

古染付イメージ

 私の古染付に限って言えば、
   網手小花生に一輪の野花。
   涼感誘う染付輪文皿に西瓜の一切。
   網手魚文皿に鮎の塩焼き。
   麦藁手湯呑は向付にイクラのおろしあえ。
   各様の形物向付に季節の一品

といった具合に、時に応じてそれぞれ使う選択と手だてを考え、季感、色感を他の器とのとり合わせに思いをめぐらせてみると、なかなかに楽しいものである。

中でも、葦水禽文の湯呑は、私のビール専用の器だが、口あたり、 立ち共によく、不透化の磁器が、決してビールの味を殺さないので珍重している。

この様に、古染付を座辺にあって眺め、用いていると、その魅力の根源は、何と言っても気どらぬ自然さにあることに思い至る。

例えば、その器胎がえてして不均整であるのは自然だからである。その絵付が、自由でのびのびとしているのは、作為や衒いがないからである。また、初源の伊万里や、創成期の唐津が美しくて力強いのは、そのうぶ気な稚拙さの中にも、ひたむきな自然さが感じられるからではあるまいか。その故にこそ、それらは親み深く、観る人の心を把えてはなさないのであろう。

とすれば、自然であることは、いかにも美しい在り方と言える。逆に言えば、人巧を弄することは自然に逆らうことであって、その度合いは美しさに反比例する。つまり自然であれば、ある程美しいと言えよう。これらは、ひとり陶芸に限らず、人間の在り方や生き方をも暗示しているのではあるまいか。

私が古染付の蒐集を通じての最も大きい収獲は、古染付と言うもの収獲ではなくて、美しいものへの愛着という道程の中から、人間の生き方や在り方の方途を学んだことであろうと思っている。

だから、私が古染付を座辺で眺めるは、それを単に美しいものとして診ることから始まって、その内に秘める、ほのかな、それでいて和かな意味(仏性)に感応することに尽きるのである。

PAGE TOP