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watanabe sampoudou

コラム

  • 古染付と私 福山人
  • 〈鼎談〉「即如」の美 在りのままに生きる

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ところが、この雅趣溢るるやきものに日本茶人が着目しない訳はなかった。佗茶と結びつく必然性が、その演技のない作振りの中に内包されていたと考えたい。土ものの器にんだ茶人達が、白磁に青花の鮮かな色合いに刮目したことは、容易に想像出来る。そして、季感を重んじる茶の道に、志野や織部では出し切れなかった懐石の演出効果が、古染付によっていっそう高められたと言えよう。

爾来、茶方に珍重されたがために、我国にのみ遺品が多いという事実の説明も納得出来るのである。しかし、当時の景徳鎮窯で、相当の量が焼造されたにも拘らず、本国にはその破片すらも見出せないという事実は、何を物語るものか。察するに、我々が古染付と呼ぶこの掬すべきやきものは、日本茶人によって註文された日本向輪出専用のやきものではなかったかと思われるのである。しかも、茶器や懐石用の食器ばかりでなく、日常用の雑をも含めて、数え切れない程の量が日本に運ばれた。だから戦前は、東北、北陸、近畿など地方の旧家には、必ずといって良い程、古染付があったものである。

古染付イメージ

一方、我国で初めての磁器(初期伊万里)が有田で焼かれて以来、伊万里港に舶載されたこれら古染付が、その絵付に中国風の変化を与へていった。所謂古染付風の初期伊万里、染付と謂われる一群がそれで、全く古染付の日本版をそこに見る思いがする。このことは、中国陶磁が日本茶人によって刺戟され、それによって今度は逆に、日本陶磁が影響を受けたという因果関係が成り立つ訳で、甚だ興味深いことである。

客観的に古染付を観た場合、中国陶磁二千年の歴史の中で、天啓の七年間は、実にアッという間の時間に過ぎない。そして、その所産たる古染付は、伝統ある中で陶磁の名を汚すものでしかなかった。宣徳の「高雅」、成化の「優麗」、万暦の「絢爛」、雍正、乾隆の「精緻」と評価される中国陶磁の流れの中では、突如として出現した「異端」のものである。それは「粗雑」とも「奔放」とも「洒脱」ともうけとれよう。が、そのために評価が低いとすれば、それは全く客観的な見方の故である。

凡そ、ものの評価には、他のものとの比較や発展の過程、更にはその及ぼす影響など、いろいろな要素があって、あく迄これらの要素をもとにして診た方が正確で、容易であろうことは否定出来ない。しかし、一方それらの要素を全く度外視して、そのもののみを掘り下げて診ることも、誤りとは言えない。むしろこの方が、直観的立場で診ることが出来るだけ、正しい診方が出来る場合も多い。

私にとって、古染付は「異端」だからこそ意味があり、「自由」だからこそ面白いのであって、それらは一向に評価の妨げにならないのである。

また、私個人の好みから言えば、当時茶器としてもてはやされた古染付を、単に茶器として評価されることには同意出来ない。その由来や意匠はどうであれ、あく 古染付は、古染付そのものとして把えたいのである。しかし、そうは言っても、古染付の総てが、佳いものばかりではない。まさに玉石混淆なのである。その中から真に美しいもの、好ましいものをとり上げる眼が必要なことは、言う もない。
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